院長 河内洋順 プロフィール

誕生 伸び伸びとした少年期

1974年 12月20日に愛知県大府市で生まれました。

僕の名前ですが洋順 ひろなお と読みます。

両親が洋々と順調に育ってほしいという思いを持ってつけてくれました。

 

父は国家公務員(郵便局員) 母は地方公務員(小学校教諭)とお固い家系で育ちました。

歯科とはまったく縁のない家系です。

父の実家は町の大衆食堂、母の実家は町工場経営でした。

祖父母が忙しく働いていたせいか、両親は家業を継ぐという選択はしませんでした。

そのため両親から僕に

「〇〇になりなさい」とか「〇〇という職業が良いよ」と言われることは全くありませんでした。

そんな両親のおかげで伸び伸びと過ごすことができ、幼少期は勉強よりも運動をして過ごしました。

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東浦の実家にて小学3年生ごろ

 

小学2年生の時に隣町の東浦町緒川へ引っ越しました。

当時の小学生は今と違い男の子ならサッカーよりも断然野球が人気でした。

ピアノも習っていたのですが野球のユニホームのまま行くぐらいの野球好きでした。

少年野球のチームでは3年生から6年までキャプテンをやらせて頂いた経験が今の仕事でリーダーシップを発揮し、チームワークや医院のマネジメントに役立っています。

当時父親は学校のPTAや少年野球チームの手伝いをしていました。

父親の仕事は夜勤もあり、時間も不規則でした。

きっと仕事も子育ても大変だったと思います。

大変ながらも育ててくれたこと、本当に感謝しています。

自分が親になることで、両親のありがたさに気づかされました。

僕も自分の4人の子供たちには、精一杯の父親業をしています。

それは父から学んだことや、父に対する恩返しだと思っています。

母は常に年中仕事をしていました。

母が現役時代にテレビをみている姿を僕は見たことがありません。

そんな真面目な両親に育てられました。

家系は金銭的には凄く恵まれていたわけではありませんでしたが僕は両親の働く姿を見て学んできたと思います。

上下関係の厳しい中学生時代

当時の仲間と一緒に地元の中学校でも同じく野球部に入部しました。

その当時はビーバップハイスクールという映画が流行り、多少(だいぶかも)学校も荒れていました。

校内暴力という言葉があった時代です。

学校生活でも部活でも今の時代ならば新聞に載るような体罰レベルのことがありました。

当時はその環境が特別なことではなく、むしろどこの中学でもある普通のことだったんです。

そんな理不尽な環境が嫌で嫌で思い出したくもないぐらいですが、仲間がいたことで乗り切れました。

この時に「自分がされて嫌なことは、他人にはしない」と学びました。

それは今の医院経営でも、診療方針でも同じ思いでいます。

 

僕の生まれた1974年は団塊ジュニアと呼ばれ、一番子供の人数が多い最後の世代です。

ゆとり世代、さとり世代は違い受験戦争という言葉あるぐらいでした。

勉強でも勝たなければ上位には生き残れないという教育を受けてきました。

部活も勉強もそんな時代でしたので、がんばってそれなりの成績を残しました。

楽しく、迷いながらの高校生時代

高校時代は地元の刈谷北高校に進みました。

母や伯母の母校に入学することができ、とても嬉しかったことを覚えています。

母たちが教わった先生が在籍していらっしゃり、伝統を感じました。

高校生活では気の合う仲間が多かったためとても楽しく過ごしました。

山が近くにないのに、高校にはワンダーフォーゲル部があり仲間や先生と山登りをしていました。

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高校2年時 部活の先生と仲間たち

良い友人たちに出会えたことは一生の財産だと断言できます。

僕の人生で最初の転機が高校2年生に訪れます。

文系、理系の進路選択が高校1年生の冬にありました。

どちらが飛びぬけているわけでもなく、可もなく不可もなくという成績でしたので理系か文系か、多いに迷いました。

結局仲の良い友人たちが文系に多かったという理由だけで文系に進みました。

(後に大後悔の元になりますが・・・。)

高校2年生の秋頃になると、友人たちは進路を定めて受験勉強に力をいれ始めました。

同級生たちは学校の先生を目指して地元刈谷の愛知教育大学を受験する人が多かったように思います。

僕もその流れで何となく「母も学校の先生だし、まあその流れに乗るか」と文系まっしぐらの勉強になりました。

文系から理系へ突然の進路変更

高校3年生の頃に突然「将来は医療の道に進みたい」と思い理系へと道を変えます。

理由は特に思いだせません。本で読んだ、映画で感化された、またまた流されてしまいました。

当時は多感な時期だったんですよね。

ひとつ明確だったのは

「自分の仕事が目の前の誰かにお役に立ちたい」

という気持ちが強くなったことです。

今思えばどこかでヤル気スイッチが入ったんでしょうか?

遅過ぎですが・・・。

先生や周りの友人があきれていましたが、それ以上に自分が自分にあきれていました。

それでもやってみようと決心しました。しかし時すでに遅く、浪人生活へ突入しました。

理系は数学は微分・積文。理科は物理・化学。

浪人してから新たに本格的に勉強しましたが、受験で通用するレベルになりませんでした。

しかし運よく愛知学院大学歯学部に入学することができました。

 

部活とアルバイトの大学生時代

大学生になってもどこか浮かない気持ちが心のどこかに正直にいえばありました。

『受験勉強やりきってないよな』 『最初から理系にいたらな』 という後悔に近い想い。

「そんな気持ちを打ち消すように歯科の勉強に励みました」

というわけもなく、あり余るエネルギーをアルバイトと遊ぶことに精を出しました。

「働くことって楽しいな」

ガソリンスタンド、引っ越し、コンサートスタッフ。

楽しく働いて、しかもお金もいただける幸せを感じていました。

今思うとアルバイトが大学より楽しく、少しモラトリアムな時期だったのかなと思います。

アルバイトを通じて仕事を任される責任感や充実感などを経験することができ、人生の勉強になりました。

しかしアルバイトにのめりこみ過ぎてあやうく留年スレスレを経験しました。

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  天皇杯サッカー準決勝 国立競技場にて

 

歯科大学は6年制です。各大学は部活動にも力を入れていることが多いです。

非常に狭い世界ですので、歯科医師になっても一生その時の人間間係は続きます。

上下関係を学ぶ良い機会になりました。

僕は卓球部に入部し、部活とアルバイトに精を出していました。

良き先輩・同級生・後輩に出会いました。

学生を卒業し、社会にでれば理不尽なことや嫌なこと、自分の無力さや実力のなさ、など数多くの経験します。

僕は若いうちにその環境に揉まれることは、業界に慣れるということも含めて良いと思います。

部活動の幹部として部の運営を経験させて頂き、人間関係の難しさを学びました。

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全日本歯科総合体育大会にて後輩たちと

 

歯科学業はというと、「留年しない程度にがんばる」という、何とも情けないスタンスで6年間過ごしました。

専門性の高い歯科大学は、学業をおろそかにすると留年となり、もう1年勉強し直しとなります。

成績は低空飛行のまま6年間過ごしました。

今書いていてもとても恥ずかしく、もっと勉強しておけば良かったと反省します。

 

歯科医師国家試験不合格を経験する

学生当時を振りかえると6年生の時に1番の親友と些細なことで喧嘩をしてしまいました。

喧嘩の理由は些細な程度のことでまったく覚えていないのです。

お互いに臨床実習で患者さんの治療に携わり、気持ちに余裕がなくなったことが原因だと思います。

卒業するまで1年間いっさい口も利きませんでした。

関係の修復改善に1年以上もかかりました。

僕と友人は国試に向かいお互いに心の支えとなるはずの関係だったはずなのに、大事な国家試験を控える1年間に会話をすることが出来ませんでした。

それはそれは精神的に堪えました。ちなみに親友も不合格になってしまいました。

今では仲直りしそれまで以上に仲良くさせていただいていますが、「あ~あの時期に喧嘩しなければなあ」 悔やみきれないほど苦い思い出です。

医歯薬科系に進んでいる学生さんには「忙しい時期こそ仲良く過ごそう」と伝えたいです。

 

学生生活を謳歌させていただいた引き換えに、歯科医師国家試験不合格という結果を招きました。今当時を振り返り思えば、当然の結果だったかもしれません。

いつも通り「ギリギリでも受かればいいや」という気持ちに罰が当たりました。

大学浪人に続き、国家試験浪人までしてしまう親不孝者でした。

高い学費を払ってもらっているのに・・・。

家族には本当に迷惑をかけてしまいました。

国家試験浪人の居場所のなさやしんどさは、経験した人しかわかりません。

自分の存在がどこにもないような、そんな感覚です。

ここからはしっかり気持ちを入れ替え勉強に励み、無事に歯科医師国家試験に合格しました。

合格は喜びよりも安堵の気持ちでいっぱいでした。

(今思いだすだけでも両親に謝りたくなります。本当に本当に苦労をかけました)

振り返ると自業自得で遠回りしましたが、いらない苦労をした分、他人の気持ちを汲んで行動するよう心がけるようになりました。

 

また国試浪人中には東海豪雨の被害にあいました。実家が床上で1メートルくらい浸水しました。

家はグチャグチャになり、勉強はできないし、散々な日々を経験しました。

今でも辛い経験をしたら、この時を思い出して「なにくそ、やってやる」という気持ちになります。

 

もし国家試験に残念ながら落ちてしまった学生さんにはこう伝えたいです。

「余分に1年間他の先生より長く仕事をしたら良いよ」

後輩の同じ立場にいる人にいて、このように励ましました。

 

歯科医師になりたいという想い

大学1年生の2月に阪神・淡路大震災がありました。

ちょうど後期テストが終わり結果待ちの時期でした。

朝ベッドが揺れに揺れて、ただごとではないと感じました。

自分でも何かお手伝いできないかと思い、突然「ボランティアへ行こう」 と決めました。思い立ったらすぐ行動。

できれば歯科関係のお手伝いができたらと考え、ひとまず西宮保健所に電話しました。

当時長崎大学で公衆衛生学の講座で教鞭をとられていた新庄文明先生が電話に出られ、快く引き受けていただけました。

2週間ほどでしたが、先生の家や施設で寝泊りをしてお手伝いをさせていただいたことは僕の歯科医師人生の財産になってます。

このことがきっかけで歯科の仕事に携わる決心がついたかもしれません。

 

4年生の時には震災時のボランティアがきっかけで歯科保健医療国際協力協議会(JAICOH)に出会い、こちらの活動にも精を出しました。

6年生の時にはミャンマーでのボランティア活動参加させていただきました。

現地で水質調査等を行い大学で発表させていただく機会もいただきました。

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ミャンマーにて歯科検診

 

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 6年生の臨床実習

愛先生との出会い

恥ずかしいですが書いておきます。妻の愛先生とは大学の同級生です。

早い時期からお付き合いさせていただきました。出会いは大切ですね。

大学生諸君には、「学生時代にぜひいい人がいたら仲良くしておきましょう!」 と言いたいです。

こんないい加減な僕をきちんと方向修正してくれるのは、伴侶しかいないわけですから(笑)

1学年に130人ほどでしたが、同級生同士の結婚が10組程いました。

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 2000年卒業式

 

たくさんのことを学ばせていただいた勤務医時代

最初に勤務させていただいたのは、南医療生協病院所属のみなみ歯科診療所です。

総合病院の中の歯科診療所という位置づけでチーム医療や他職種連携、往診、在宅医療を学ばせていただけることに魅力を感じ就職させていただきました。

朝から晩まで働かせてもらいながら厳しくも多くの経験をして、学ばせていただきました。

特に他職種の方とも連携して仕事をしていましたので、人間関係におけるコミュニケーションの能力はここでさらに鍛えられたのではないかと思います。

「立場が変われば見方が変わる」ことを強く意識するようになったのはこの頃からです。

ここでの経験や学んだことは、今のふき歯科クリニック(旧岩川歯科医院)の形を作るのにとても勉強になっています。

今でも時々同僚と会って昔話に花を咲かせています。

 

2件目に勤務させていただいたのは、刈谷市の田中歯科医院さんです。

たくさんの勤務医の先生と切磋琢磨して働いていたことが良い思い出です。

 

素晴らしい先生たちとの出会いが成長のエネルギー

大学浪人も経験しましたし、国家試験も不合格を経験して2年遅くなりました。

その分をストレートに進んだ先生よりもたくさん勉強して追いつきたいという気持ちで、診療のお休みの日はできるだけ多くの講習会に参加するようにしました。

 

中でも国際歯周内学研究会を作られた生田図南先生の講習会は感銘を受けました。

「滅菌は愛である」という考え方や位相差顕微鏡を用いた歯周内科という新しく治療方法を考案されました。

それから歯周内科の理事の先生方の講習会を全て行き、学会もたくさん出席して最新の知見を学んでいます。

歯周内科治療は歯科衛生士さんの活躍あってこそ成り立つ治療なので、当医院は歯科衛生士さんを積極的に採用しています。

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生田セミナーにて

もう一人は山形県酒田市の熊谷崇先生です。

NHKプロフェッショナル仕事の流儀やカンブリア宮殿に出演されている虫歯の予防の第一人者で著名な先生です。

熊谷先生の「むし歯にさせない」、「メンテナンスで命と歯の寿命を逆転させる」という治療方針に共感し当医院ではできるだけむし歯にさせないよう予防医療に力を入れてきました。

唾液検査とメディカルトリートメントモデルを取り入れることでむし歯に対するリスクを知るということを多く実践しています。

予防医療は歯科衛生士さんの活躍なくしては、できません。

歯科医師と歯科衛生士さんがともに協力しながら歯科医療に臨むことが患者さんの真の利益につながると信じています。

今後も貪欲に勉強し、吸収しています。

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 山形県日吉歯科診療所にて熊谷崇先生を囲んで片岩 山下 森

 

岩川歯科医院 2代目を継承

歯科医師としてキャリアを積んで、やる気も気力も体力も充実した30代半ばにさあそろそろ開業を考えるということになりました。

ここが第2の転機でした。

実家が歯科医院ではない僕の選択肢は、新たに開業するか分院長をするか、または妻の実家で一緒に行うか。

いろいろ考え、妻の実家でお世話になることに決めました。

当時子どもが2人おり、妻にも歯科医師として活躍の場を確保しようと思うと自然な流れだったかなと思います。

今では子宝にも恵まれ4人の子供がいます。

親子継承ですが、変則的な2代目になります。

1代目の岩川が築いてくれた医院を僕たちで、さらにより良くしていきます。

2018年5月より

代表者交代により

ふき歯科クリニックと名称を変更させて頂きます。

スタッフと力をあわせて、地域医療に貢献できるようがんばっていきます。

今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

2017年8月集合写真

2017年8月1日撮影

長文読んでいただきありがとうございました。